あるある文化財VOL.211 白石新四国八十八ヶ所(10)(第25番~第27番)
所在地の後に四国八十八ヶ所(しこくはちじゅうはちかしょ)札所の寺院名と本尊を( )内に併記します。銘文の旧漢字は世話人名以外を常用漢字に直し、竿石に向かって正面を(正)、右側面を(右)、左側面を(左)と表記します。なお、四国の旧国名の阿波国(あわのくに)(徳島県)は「阿州(あしゅう)」と記されています。
第25番 横手上(よこてかみ)・永昌(えいしょう)寺本堂前(津照(しんしょう)寺‐地蔵菩薩(じぞうぼさつ))
両手で宝珠(ほうじゅ)を乗せます。
四国八十八ヶ所第25番の寺号(じごう)は津照寺ですが、津寺(つでら)とも呼ばれています。
津照寺は、明治初期の神仏分離により廃寺となりましたが、同16年(1883)に復興されました。
明治十五午年
(右) 大世話人
大戸村喜多和十
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第二十五番
(正) 本尊地蔵菩薩
土州
津寺
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横手村中
藤井玄龍
(左)世話人
江口伊右エ門
第26番 横手上・広域農道沿いの大師(だいし)堂(金剛頂(こうごうちょう)寺‐薬師如来(やくしにょらい))
基礎は失われ、世話人を「施主」と刻みます。両手で蓋付(ふたつき)円形薬壺(やくこ)を乗せる坐像は、昭和32年(1957)秋彼岸(ひがん)(9月)に新たに造られたもので、再建立世話人1人、再建者2人の氏名が再建立年月と共に左側面に追刻されています。3人とも川﨑姓であることから、「施主 川﨑秀助」の御子孫の方でしょう。
四国八十八ヶ所第26番の寺号は金剛頂寺ですが、東側の室戸岬(むろとみさき)先端に位置する第24番最御崎(ほつみさき)寺と地理的に相対していることから、金剛頂寺は西寺(にしでら)と、最御崎寺は東寺(ひがしてら)とも呼ばれます。
明治十五午年
(右) 大世話人
大戸村喜多和十
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第二十六番
(正) 本尊薬師如来
土州
西寺
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横手村
(左) 施主 川﨑秀助
第27番 西分(にしぶん)公民館西約140mの祠(神峯(こうのみね)寺‐十一面観世音(じゅういちめんかんぜおん)菩薩)
両手で鉄鉢(腹病を治す)?を乗せます。舟形光背(ふながたこうはい)先端が欠損し、竿石は地面に置かれています。白石新四国八十八ヶ所第27番は、八の割(はちのわり)公民館西の四つ角にある祠とされていますが、こちらが第27番です。
四国八十八ヶ所第27番は神峯山に鎮座する神峯神社で、麓の常行(じょうぎょう)寺や養心庵(ようしんあん)が納経所でした。明治4年(1871)の神仏分離の際に、常行寺・養心庵は廃寺となり、本尊は第26番金剛頂寺(西寺)に預けられ、同寺が札所・納経所を代務していましたが、明治20年(1887)に現在地に観音堂が再興された際に本尊が戻され、第27番札所・納経所となりました。
大正(たいしょう)元年(1912)に茨城県から地蔵院の寺格を移し、昭和時代に「神峯」から「神峯寺」と称するようになりました。
竿石正面に刻まれた「龍頭山(りゅうとうざん)」は第26番金剛頂寺の山号で、現在の第27番神峯寺の山号は竹林(ちくりん)山です。
上記したように、四国八十八ヶ所第26番龍頭山金剛頂寺が第27番を代務し始めたのが明治4年であることからすれば、白石新四国第27番の山号を「龍頭山」としているのは、明治4年以降の状況を反映したものということになります。
明治十五午年
(右) 大世話人
大戸村喜多和十
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第二十七番
(正)本尊十一面観音
土州
龍頭山
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築切西分村中
西村忠左エ門
(左)世話人
中村祐左エ門
<参考文献>
・HP(一社)四国八十八ヶ所霊場会
・新四国八十八ヶ所研究会編『白石新四国設置由来 八十八ヶ所所在地及び本尊』平成23年
・岩田和昭「神仏分離・廃仏毀釈期の四国八十八ケ所札所‐納経帳からの考察を中心として」(『四国辺路の
形成過程』岩田書店 平成24年)
・『白石新四国八十八ヶ所巡り ポンコツ女子珍道中2020』令和2年
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