あるある文化財VOL.173 石造役小角坐像(せきぞうえんのおづぬざぞう)
役小角(えんのおづぬ)は飛鳥(あすか)時代(7世紀)の呪術者(じゅじゅつしゃ)で、役行者(えんのぎょうじゃ)あるいは役優婆塞(えんのうばそく)とも呼ばれています。生没年や経歴等の詳しいことは分からず、正史である『続日本紀(しょくにほんぎ)』巻第1の文武(もんむ)天皇3年(669)5月24日の記事が唯一の史料となります。次に要約します。
役君小角(えのきみおづの)を伊豆(いず)大島に配流(はいる)した。小角は葛城山(かつらぎやま)(奈良県
と大阪府の境)に住み、呪術で称賛されていた。外従五位下韓国連広足(げじゅごいげからくにのむらじ
ひろたり)の師であった。後に誰かが、小角が才能を悪用し百姓を惑わした、と陥(おとしい)れた。それ
で、小角を遠方に配流した。世間では、小角は鬼神(きしん)を使役して、水を汲ませたり薪を採らせた
りした。もし命令に従わなければ、鬼神を呪縛(じゅばく)した。
役小角を配流したことは事実ですが、後半の鬼神を使役する記述については、既に伝説的な内容になっています。
平安時代(9世紀前半)に記された仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』上巻第28の「孔雀明王(くじゃくみょうおう)の呪法(じゅほう)を修め、不思議な霊力を身につけ、この世で仙人となって天を飛んだ話」は、「役小角説話の現存の最も古いもの」で、その後に役小角は呪術に優れた伝説的な宗教者とされ、鎌倉時代(13世紀)には修験道(しゅげんどう)(日本古来の山岳信仰)の祖として信仰されるようになりました。
修験道の祖として修験者に信仰された役小角は、一般的には頭巾(ずきん)をかぶり一本歯の高下駄を履き、脛(すね)を出して岩座に座りあるいは立ち、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に巻物を持つ姿で現されます。
その役小角ですが、町内では現在のところ2基の石造坐像が確認されています。
馬洗・豊前坊(もうらい・ぶぜんぼう)境内と小島城(おしまじょう)跡の頂上にあります。馬洗・豊前坊は、第10代須古邑主(すこゆうしゅ)鍋島茂訓(しげくに)の延享(えんきょう)5年(1748)孟春(もうしゅん)(正月)に、筑前国(ちくぜんのくに)(福岡県)秋月(あきづき)の豊前坊の神を祀ったのが始まりです。石造宝殿(ほうでん)に向かって左の木製祠内の高さ約85㎝の坐像は、頭巾をかぶり脛を出して高下駄を履き、右手に錫杖(欠失)、左手に巻物を持ち岩座に腰掛けています。
馬洗・豊前坊の坐像
左足脇の岩座に「柴燈護摩衆中(さいとうごましゅうちゅう)」、右足脇の岩座に「江口郷左衛門(ごうざえもん)」、岩座正面には「外尾□兵衛(ひょうえ)(□は判読不能文字)」他7名が刻まれています。江口郷左衛門を中心とする柴燈護摩(護摩法要)を行う集団(修験者)8名により造立されたことが判明します。木製祠の中に安置されているので、岩座左右側面のどちらかに刻まれているであろう年代は判読できませんが、白濱信之著『肥前修験道の研究』には、「天明(てんめい)四年(1784)甲辰(きのえたつ)正月吉祥日」の造立とされています。
小島城跡の頂上にある高さ約63㎝の坐像も、馬洗・豊前坊と同様の姿をしています。右手の錫杖は失われています。岩座の左右側面に花頭型(かとうがた)の窪みが彫られ平滑にされていますが、何も刻まれておらず、造立年代や造立者等は不明です。安政(あんせい)3年(1856)の『杵島郡須古郷図』(県立図書館蔵)の「小島城跡」頂上には役小角坐像らしき物が描かれています。
小島城跡の坐像
<参考文献>
・中村元他編『岩波 仏教辞典』岩波書店 平成元年
・白濱信之『肥前修験道の研究』葦書房 平成2年
<史料>
・青木和夫他校注『続日本紀』第1(新日本古典文学大系12 岩波書店 平成元年)
・中田祝夫校注・訳『日本霊異記』上28(新編日本古典文学全集10 小学館 平成7年)
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