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あるある文化財VOL.186 「后土純精標」の碑

后土純精標の碑

明治9年銘「后土純精標」碑

 

 有明地域坂田(さかた)公民館の一角に「后土純精標(こうどじゅんせいひょう)」と刻まれた高さ2m4cmの自然石の碑が建っています。これは明治政府により行われた地租改正(ちそかいせい)事業を記念して明治9年(1876)12月に建てられたものです。
 明治政府は、明治6年(1873)に地租改正条例を制定し、古来より続いてきた物(米)を中心とした納税から、現金による納税へ転換(てんかん)を進めました。地租改正を実施するにあたり、土地の所有者、面積、用途について全国的に調査・測量することが重要になりました。
 有明地域においては明治9年~10年(1877)にかけて田畑・宅地が、明治14年(1881)~15年(1882)にかけて山林原野の測量が行われたと『有明町史』にあります。この石碑が建立されたのが明治9年12月であることから、当時の坂田村は、有明地域の中でも早期のうちに測量事業を完了させたと思われます。この事業により土地所有者には、所有権を示す地券が発行され、測量結果は、地図にまとめられ長崎県に提出されました。
 なぜ成果物が長崎県に提出されたかというと、当時の佐賀県の情勢が関係しています。石碑の建立される2年前の明治7年(1874)2月に、佐賀県において明治政府に対し不満を持った不平士族による大規模な反乱である「佐賀の乱」が発生しています。乱を鎮圧(ちんあつ)した政府は佐賀県を難治(なんち)県(中央政府に従わない士族が多い県)と捉え、明治9年4月に筑後(ちくご)地方の三潴(みずま)県に合併(がっぺい)し、佐賀県は消滅します。同年8月には三潴県より佐賀県部分が長崎県に合併され、その後明治16年(1883)に再び佐賀県が復県するまでの間は、佐賀県部分は長崎県に属しました。
 石碑正面に彫られている「后土」は国土を意味し、「純精」とは詳(くわ)しく調査することを意味します。石碑正面と北側面には、測量調査に携(たずさ)わった当時の検査官、戸長(こちょう)(市町村制導入以前の区の役人)、村民の人名が多数刻まれています。地租改正における測量や地図の作成は、原則として村民自身の手で行うこととなっており、村民の理解と協力を得ることが不可欠でした。地租改正を記念する石碑は、県内において例がなく、『佐賀県史』においても写真付きで紹介されています。
 明治時代初期は、急速な社会構造の変化の弊害(へいがい)により国内の情勢は不安定であり、特に九州では明治7年佐賀の乱、明治9年神風連(じんぷうれん)の乱(熊本)、秋月(あきづき)の乱(福岡)、明治10年西南(せいなん)戦争など不平士族による反乱や地租改正反対一揆(いっき)が発生しました。このような情勢下においても、郷土の地租改正の測量が実施され、その事業を記念する石碑が建立されたことは、村民の事業に対する深い理解と協力があったことを示しています。

 
〈参考文献〉
有明町教育委員会『有明町史』昭和44年
有明町教育委員会『有明町の文化財』昭和51年

国土交通省HP

佐賀県『佐賀県史』下巻 昭和42年

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このページに関するお問い合わせ先 生涯学習課 生涯学習係 電話(直通):0952-84-7129

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