あるある文化財VOL.174 石段寄進碑(1)
上田野上(かみたのうえ)・福泉禅(ふくせんぜん)寺(臨済(りんざい)宗)の自然石敷参道は、入口の門柱から山門下までほぼ一直線に延びています。山門直下から山門をくぐり本堂へ向かう石段は、現在は切石積へと変わり、山門下の踊り場を挟んで下位の5段と上位の21段、本堂下の45段の石段から構成されています。便宜的に下位の5段を下段、中位の21段を中段、上位の45段を上段としてこれから説明していきます。
これらの上・中・下段は、もとは門柱から続く長い自然石敷参道と同様であったことは、中・上段第一段目の下部に不揃いな自然石が見えることや、それぞれの踊り場に同様な自然石が敷設されていることから明らかですが、元が何段であったのか不明ですが現在の段数とさほど変わらないと思われます。
上・中・下段の建立年代等を刻んだ一対の石柱(石段寄進碑)がそれぞれの上り口左右に残されていますので、まず上段のから見てみましょう。
山門下の中・下段
向かって右には「石檀 施主田野上村 大野市右衛門(いちえもん)」、同左には「安永(あんえい)第七戊戌仲冬上浣(つちのえいぬちゅうとうじょうかん) 現住太雄(たゆう)代」とあります。安永7年(1778)仲冬(11月)上旬、福泉禅寺第39代太雄和尚(明和(めいわ)7年(1770)3月~)の代に田野上村の大野市右衛門が施主となり石檀(段)を寄進(建立)したことが分かります。
中段向かって右の寄進碑
山門下の中段にある一対の向かって左には「天明(てんめい)七丁未(ひのとひつじ)歳二月吉祥日 太雄代」とあり、上段建立から10年後の天明7年(1787)2月の同じく太雄和尚の代に寄進されたことがわかります。向かって右の石柱には寄進者7名が刻まれていますが、本来の正面にあたる面が現石段に接しており、僅かに大文字の「金」と姓の一部の「大」字程しか判明しません。「金」は「布金主(ふきんしゅ)(施主)」の一部であろうことからこの面にも寄進者名が刻まれていると思われます。
下段向かって左の寄進碑
現在確認できる寄進者7名のうち4名は三瀬岩右衛門室(いわえもんしつ)・久原藤右衛門(とうえもん)室・大井手左兵衛(さひょうえ)母・渕上徳左衛門(とくざえもん)室とあります。他の3名の下部は表面が欠損していますので断定はできませんが、いずれも「室(妻)」あるいは「母」であると思われます。江戸時代における女性の地位は低く、「室」「女房」や「母」のみで名前が刻まれた例は、町内の石造物ではほんの僅かしか確認できません。この中段の寄進者は、断定はできませんが、全て女性であった可能性が考えられます。
最後は下段にある一対の石柱ですが、向かって右には「天明八甲申(きのえさる)歳十月吉日 現住太雄代」と「直太夫(なおだゆう)」他5名が、同左には「布金主」として直七他10名の計17名が刻まれています。中段から1年後の7月、これまた同様に太雄和尚の代に寄進されたものです。
以上をまとめると、上・中・下段いずれの石段も、第39代太雄和尚の時代(安永7年と天明7・8年)に寄進されたものですが、最も長い上段は一人の、中段は可能性として女性のみの、最も短い下段は一般庶民の寄進であることが分かりますが、寄進者数と石段の数が反比例していることは、それぞれの階級の資産力の差を物語っているようで興味深く思われます。
<史料>
・『当山由来伝記』福泉禅寺所蔵
・「済家宗由緒」(佐賀県立図書館編『佐賀県近世史料』第10編第2巻、平成24年)
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