あるある文化財VOL.202 白石新四国八十八ヶ所(1)
明治9年(1876)から同15年(1882)にかけて、当時の各村(馬洗(もうらい)村・堤(つつみ)村・湯崎(ゆざき)村を除く)の世話人と共同で白石新四国八十八ヶ所(しろいししんしこくはちじゅうはちかしょ)を設置した喜多和十(きたわじゅう)とその設置理由については、「あるある文化財」第170号(令和元年7月号)でご紹介しましたが、そもそも喜多和十が巡礼した四国八十八ヶ所とは、一体どのようなものなのでしょうか。
石造(せきぞう)「喜多和十翁(おう)」立像(りゅうぞう)
西郷(にしごう)・東照(とうしょう)寺
四国八十八ヶ所は四国(徳島県・高知県・愛媛県・香川県)に存在する真言(しんごん)宗開祖の空海(くうかい)(弘法大師(こうぼうだいし))ゆかりの88ヶ寺の総称で、各寺院を「札所(ふだしょ)」(参拝したことの証として札を納める所)とも呼びます。宗派の内訳は、真言宗79ヶ寺、天台(てんだい)宗4ヶ寺、臨済(りんざい)宗2ヶ寺、真言律(しんごんりっ)宗・曹洞(そうとう)宗・時(じ)宗が各1ヶ寺となります。
徳島県(阿波国(あわのくに)-発心(ほっしん)の道場)に23ヶ寺、高知県(土佐(とさ)国-修行(しゅぎょう)の道場)に16ヶ寺、愛媛県(伊予(いよ)国-菩提(ぼだい)の道場)に26ヶ寺、香川県(讃岐(さぬき)国-涅槃(ねはん)の道場)に23ヶ寺(第66番雲辺寺(うんぺんじ)は徳島県三次(みよし)市所在)があり、時計回りに徳島県から高知県・愛媛県を経て香川県へと巡る行程となります。その総距離は、行程にもよりますが約1,200~1,400kmとされ、徒歩だと40~50日程、自家用車でも10日前後を要するとされています。四国八十八ヶ所札所を巡る行為を「四国遍路(へんろ)」または「お遍路」、「お四国」などと呼びます。
森正人著『四国遍路 八八ヶ所巡礼の歴史と文化』によれば、四国遍路は空海が開創したとされていますがその起源等はよく分からず、「仏教の修行であった四国の遊行(ゆぎょう)が、一般民衆に受け入れられ始めるのは中世後半、ブームになるのは江戸時代中期」で、貞享(じょうきょう)4年(1687)発行の『四国遍路道指南』が最も古い案内記であると紹介しています。
さて、現在では仏教寺院としてそれぞれ独立している札所ですが、江戸時代までは、日本の神々は仏が教えを広めるために姿を現したものであるとする神仏習合(しんぶつしゅうごう)の考えがあり、神社境内に神社に付属する寺院(神宮(じんぐう)寺)や神社を管理する別当(べっとう)寺が設置されたり、神の本来の姿である仏(本地仏(ほんじぶつ))が本殿に祀られることは全国的に珍しいことではなく、札所にもこのような例がありました。
しかし、明治新政府は慶応(けいおう)4年(1868)3月から明治元年(1868)10月までに出した一連の通達(通称、神仏分離令(しんぶつぶんりれい))により神仏習合を禁止し、神社からの仏教色一掃を図ります。これに伴い寺院や仏像等の破壊(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))が全国的に発生しました。四国八十八ヶ所札所の中でも、高知県や愛媛県東予(とうよ)(東部)が特に影響を受け、寺院が神社から独立したり、廃寺や無住の寺となったりする例が見られました。神仏分離や廃仏毀釈の影響は長く続き、現在の四国八十八ヶ所が確立したのは、第30番札所が善楽(ぜんらく)寺に確定された平成6年(1994)のことです。
喜多和十が設置した白石新四国八十八ヶ所を詳しく見ていくと、一部ではありますが、神仏分離や廃仏毀釈を受けた四国八十八ヶ所札所の状況を見て取ることができます。
〈参考文献〉
櫻井恵武著、四国八十八ヶ所霊場会監修『四国遍路 八十八の本尊』NHK出版 平成14年
中村元他編『岩波 仏教辞典』岩波書店 平成元年
森正人『四国遍路 八八ヶ所巡礼の歴史と文化』中央公論社 平成26年
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