あるある文化財VOL.175 石段寄進碑(2)
馬洗(もうらい)・豊前坊(ぶぜんぼう)は、杵島山系北部の栗岡山(くりおかやま)山頂近くに位置しています。自然石積参道に立つ宝暦(ほうれき)2年(1752)5月銘の三の鳥居には豊前坊創始のいわれ等が刻まれています。それによれば須古邑(すこゆう)第10代鍋島茂訓(しげくに)の代の寛延(かんえん)元年(1748)孟春(もうしゅん)(正月)に、秋月(あきづき)の豊前坊(福岡県田川郡添田町(そえだまち)英彦山(ひこさん)所在)の神が栗岡山の連理(れんり)の松(別々の松の枝がくっついて一本のようになった松)に飛来した、宝暦元年(1751)6月に「神門(しんもん)(鳥居)」創建を命じたとあります。
ちなみに、「寛延」と改元されたのは延享(えんきょう)5年(1748)7月12日、「宝暦」は寛延4年(1751)10月27日の改元ですので、寛延元年正月や宝暦元年6月と言う年月は存在しません。このような改元前に使用された年号は未来年号と呼ばれます。
拝殿後ろには、宝暦6年(1756)7月建立とされる宝殿(ほうでん)に至る12段の切石積石段があります。石段上端に一対の四角柱があり、向かって左側(南側)には、権大僧都法印(ごんだいそうずほういん)元澄の代の寛政(かんせい)2年(1790)9月に寄進したと刻まれています。誰の寄進かは分かりませんが、宝殿前には寛延元年8月に佐嘉蓮池(はすいけ)町(佐賀市柳町)の御用商人とされる横尾清吉が寄進した神前燈籠(しんぜんとうろう)一対を初めとし、同4年(1751)5月にかけて須古邑以外の人物が寄進した神前燈籠が計8基あり、豊前坊の創始から程なく須古邑以外にも広く信仰されていたことが窺えますので、多くの人々からの浄財をもとに寄進されたものでしょうか。
宝殿に至る石段
自然石積参道を登りきった境内地東端に、2基の縦長自然石碑があります。一つには「奉坂再興 伊万里中町 前田治右エ門(じえもん)」と、もう一つには「嘉永(かえい)元戊申(つちのえさる)八月吉祥日 宮司日蔵坊元栄法印代」とあります。これは、嘉永元年(1848)8月に伊万里中町(伊万里市伊万里町甲)の前田治右エ門(陶器を扱う伊万里商人)が坂を再興(石段を寄進)したことを示す一対の寄進碑と考えられます。
嘉永元年銘「坂再興」碑
現在の参道は不揃いの自然石を並べたものですが、安政(あんせい)3年(1856)の『杵島郡須古郷図』には足を乗せる段石と両側の袖石(耳石)が明確に描かれていることから、前田治右エ門が再興した坂(石段)は、上述した拝殿後ろと同様の切石積石段であったと考えられます。現在のような不揃いの自然石を並べた参道となったのは、嘉永元年の寄進碑側にある四角柱の「石坂再修」碑にあるように、明治41年(1908)5月に築かれたものでしょう。
三の鳥居下の石段
〈史料〉
佐賀県立図書館蔵『杵島郡須古郷図』安政3年(1856)
〈参考文献〉
伊万里市『伊万里市史』陶磁器編古伊万里 平成14年
上峰村『上峰村史』昭和54年(1979)
米田雄介編『歴代天皇・年号事典』吉川弘文館 平成15年
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