白石町ゆかりの人
鎌倉時代から現代に至るまで、歴史に名が残る白石町出身またはゆかりのある人を紹介します。
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)
戦国武将。須古城に隠居した後、九州北部を一代で領有。
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白石六郎 通泰(しろいしろくろう みちやす)
鎌倉御家人、文永の役(1274年)の際、窮地の竹崎李長を救援『蒙古襲来絵詞』に描かれている。
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平井 経治(ひらい つねはる)
須古城主。応仁の乱の頃に天下不穏、軍乱の世となり、水堂が荒廃していくのを嘆き、安福寺を建立。
戦に勝ち無事を祈るための「須古踊り」を広めたのも平井一族と言われている。後に龍造寺隆信に滅ぼされる。
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龍造寺 信周(りゅうぞうじ のぶかね)
隆信の異母弟。須古鍋島家初代
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吉村 新兵衛(よしむら しんベえ)
嬉野茶の始祖。新兵衛の父大串太郎右エ門は白石町吉村の天満宮に難を避けて助かったことから氏を吉村と改めた。新兵衛はその後庄屋として辺田村に居住。藩命により嬉野の皿屋敷に移住。嬉野不動山に茶樹を栽培して製茶に全力を尽くし、嬉野茶を創始した。
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鍋島 茂真(なべしま しげまさ)
10代佐賀藩主直正の庶兄。13代須古鍋島家茂臣の養子となる。直正と共に佐賀藩の近代化に貢献 。
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鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)
紀伊 八平(きい はちへい)
明治15年福富村生まれ、大正13年から昭和4年まで県議会議員として活躍。昭和初期、農地を広げるための干拓事業に尽力。「八平搦」にその名が残る。(福富中区出身)
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川崎 道民(かわさき どうみん)
1831年~1881年、佐賀藩医松隈甫庵の4男で、須古鍋島家医師川﨑道明の養子。蘭方医学を学び佐賀藩医となった。また、使節として赴いたヨーロッパで新聞の公益を認め、明治5年(1872)に佐賀で「佐賀県新聞」を発行した。
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織田 萬(おだ よろず)
1868年~1945年、大正10年、日本人初の常設国際司法裁判所判事となる。
京都帝国大学、立命館大学設立関わる。法学博士。京都大学名誉教授、立命館大学名誉総裁。
(須古出身)
蒲原 有明(かんばら ありあけ )
1875年~1952年、東京出身。本籍は須古村。象徴派詩人。昭和23年、日本芸術院会員に選ばれる。
船津 辰一郎(ふなつ たついちろう )
1873年~1947年、明治~大正時代の外交官。大鳥圭介公使の書生として北京、朝鮮漢城におもむく。
明治27年外務省留学生試験に合格。中国語に堪能で、一貫して中国畑を歩む。
退官後、在華日本紡績同業会総務理事となり、のち対中和平工作にもかかわった。佐賀松陰学舎卒。(須古出身)
武藤 信義(むとう のぶよし)
1868年~1933年、旧帝国陸軍軍人。昭和7年、二度目の関東軍司令官に就任。
満州国駐在特命全権大使と関東長官を兼務し日満議定書を調印。
満州国内の治安維持等の軍功により翌年元帥号を賜る。
(牛間田出身)
山口 良忠(やまぐち よしただ)
1913年~1947年、東京民事地方裁判所判事。昭和22年、ヤミ米を拒否し配給食のみ食し、栄養失調で死亡。
父山口良吾は八坂神社宮司で教育家。
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吉原 清治(よしはら せいじ)
1905年~1974年、昭和5年報知新聞主催の小型機によるベルリン~東京間(11,000kmを11日間)飛行に成功。
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市原 角市(いちはら かくいち)
通称:かっくんちゃん
1894年(1898,1904諸説あり)~1952年、白石が誇る盲目の吟遊詩人。首には大きな瘤が三つあり、そこに布を巻いていて、人からおにぎりを恵んでもらうと、必ず土の上に転がし、泥をつけて食べ、貰った銅貨は口に含み時にはそれを歯で二つ折りにする。
しかし、柄箱に弦を張った手製の一弦三味線を華麗にさばき、即興でひとたび歌いだせば、哀愁・ユーモア・社会風刺・艶笑などのアイディアに満ち溢れ、人々の心をとらえて離さなかった。三味線・ラッパだけでなく、鉦や太鼓など打楽器でもその才能は発揮され、誰もまねのできないものであった。県内のみならず、福岡・長崎まで唄い歩き門付けして回った。
末次 一郎(すえつぐ いちろう)
1922年~2001年、日本健青会創設副委員長、1959年総理府中央青少年問題協議会専門委員、国立中央青年の家運営委員、1964年新樹会代表幹事、1975年青年海外協力隊運営委員、1976年(社)協力隊を育てる会副会長、1989年(社)日本青年奉仕協会会長等を歴任し、歴代首相の指南役と言われている。
旧福富町出身=名誉町民
香月 熊雄(かつき くまお)
1916年~1995年、元佐賀県知事。鹿児島高等農林学校(現鹿児島大学農学部)を卒業後、佐賀県庁に入庁。
農林部長を15年務めた後、県農協中央会副会長となった。その後、副知事を経て、1979年の佐賀県知事選挙で初当選。
1991年まで連続3期12年を務めた。在任中、広大な環濠集落が見つかった吉野ヶ里遺跡の保存を決めている。
1991年に勲二等旭日重光章を受章、1995年に心不全のため逝去。
(須古久治出身)
白石町出身またはゆかりのある、全国で活躍されている人を紹介します。(敬称略)
大串 啓二(おおぐし けいじ)
現日本陸上競技連盟顧問、東京陸上競技協会副会長
400mハードル競技などで三回のオリンピック大会に日本代表選手として出場。さらにソウル・バルセロナオリンピックでは日本チームの監督を務めた。(東郷出身)
前田 和浩(まえだ かずひろ)
1981(昭和56)年4月生まれ:陸上選手
白石中学校を経て佐賀県立白石高等学校卒業後、(株)九電工に就職。
中学・高校時代から各種大会に出場、九州では名の知られた選手であった。トラック種目を中心に競技活動を続けていたが、2009年8月には世界陸上ベルリン大会マラソン、2013年8月の世界陸上モスクワ大会マラソンに日本代表選手として出場した。(多田出身)
南治 一徳(なんじ かずのり)
1970(昭和45)年生まれ:ゲーム制作会社 BeXide(ビサイド)社長
東京都在住。トロとお話しする PlayStation 用ソフト『どこでもいっしょ』を制作し、いくつかの「どこいつシリーズ」を手がける。(高町出身)
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西村 康博(にしむら やすひろ)
1950年12月生まれ:競輪選手
1970年にデビュー後以来、息の長い活躍を続け、2009年2月27日には玉野競輪場で通算600勝を達成した。2010年7月から実働現役競輪選手最年長となり、同年12月20日には地元の武雄競輪場において還暦での出走を果たした。2011年11月11日、地元武雄競輪場でのレースを最後に引退した。(牛間田出身)
橋本 祐充子(はしもと ゆみこ)
1960(昭和35)年1月生まれ:栄養士
日本栄養士会佐賀県栄養士会所属。西九州大学短期大学部非常勤講師。佐賀県立農業大学校非常勤講師。
白石町商工会で取り組んでいる凍結含浸(がんしん)法”やわらか野菜”をプロデュース。(福富出身)
前田 義貴(まえだ よしき)
1975(昭和50)年8月生まれ:元プロサッカー選手
1997年から2001年までJ2サガン鳥栖に在籍(ポジションはゴールキーパー)、その後アルエット熊本(現J2ロアッソ熊本)に在籍。現役引退後はサッカー誌編集などに関わりながら、現在は横浜市桜木町にある多目的フットサルコート「キャプテン翼スタジアム」のスタッフ(支配人)として子どもから大人までサッカーやフットサルの魅力を伝える仕事に携わっている。(多田出身)
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