平井経治(ひらいつねはる)
?~天正2年(1574)
最後の須古城主。平井氏は中世北九州の名族、少弐(しょうに)氏一族で、少弐(武藤)資頼(すけより)の次男盛氏(もりうじ)の子経氏(つねうじ)が平井と改姓し肥前国(ひぜんのくに)に移ったとされる。室町時代後期(15世紀後半)には小城郡の千葉氏家臣となり、白石地方と深い関係を有した考えられる。
大永5年(1525)に千葉氏と有馬氏が横辺田(よこべた=大町町)で兵を交えた時に、平井経則(つねのり)は主君千葉氏を裏切り有馬氏に寝返ったため、千葉氏が敗退する結果となった。以後、有馬氏の家臣として、天文9年(1540)にも杵島郡内において千葉氏と戦った。経則が寝返ったのは、子の経治(実際は弟)が有馬義貞の娘婿となったためとされる。
経治は永禄6年(1563)から天正2年(1574)にかけて、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)と前後4回の合戦を行ったが、同年12月20日、遂に須古城は落城。経治は矢に当たって戦死したとも、本丸にて自害したともされている。『直茂公譜』には、経治の弟直秀の一子が鍋島直茂(なべしまなおしげ)に召し抱えられて平井神左衛門と称したとあり、『肥陽軍記』には直茂が経治の子を佐賀に連れ帰り、領地を与え野村氏に改めたとある。
陽興寺(ようこうじ)の須古鍋島家御霊屋(おたまや)北側に、平井一族の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)5基がある。
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